赤石五葉松の歴史
- 歴史が証明する赤石五葉松の価値
- Wick Canvas 編集部
- 更新日:2022/11/14
- 投稿日:2022/10/11
- 赤石五葉松
400年以上の歴史を誇る赤石五葉松
赤石五葉松の盆栽は、古くから赤石連峰の愛媛県四国中央市土居町の特産物として、安土桃山時代より400年以上の歴史を誇っています。
現在は、種から育てられた樹齢約50〜70年の赤石五葉松が約20万本、圃場に残されています。
明治から昭和初期
明治初期から山取りした苗を盆栽に仕立てる地元愛好家が存在していました。
盆栽熱が最初に高まったのは大正末期から昭和初期にかけてで、当時はもっぱら山取りした苗を畑に移植し、2〜3年後に鉢に移して盆栽に仕立て販売するものでした。当時、盆栽の栽培は農家の副業であり、専業で営む者はいませんでした。
昭和30年代から本格的な生産地へ
赤石五葉松盆栽の需要は、高度経済成長が始まった昭和30年(1955年)頃から急速に伸び始めます。盆栽ブームとともに各地で多くの盆栽展示会が開催されるようになったのもこの時期です。
実生苗の生産が始まった昭和30年代には、土居町の赤石五葉松の栽培面積は3ha程度でしたが、昭和40年代に入ると栽培面積・栽培戸数ともに急増しました。
昭和46年には栽培面積11ha・栽培戸数150戸、昭和50年には34ha・270戸、昭和55年には43ha・285戸となり、以後栽培面積は横ばいとなりました。
山取りから実生へ
昭和30年代は赤石山一帯に多くの五葉松が生育しており、山から採取したものは「山採り」と呼ばれ、関東からも業者が頻繁に買い付けに訪れるほどでした。
赤石山山頂付近の高山植物は愛媛県の天然記念物(「赤石山の高山植物」昭和32年・1957年12月14日指定)に指定されました。
需要の高まりとともに山採りの苗は昭和34年頃までに採り尽くされ、山で種子を採取して種から苗を育てる実生苗の仕立て方式へと変化していきます。
すると松かさの採取が盛んになり乱獲が始まりました。他者より先に採取しようと未熟な実や種の入っていない松かさまで採るようになり、資源の枯渇が懸念されました。
種が広く流通するようになると稀少価値が失われていくという問題も生じ始めました。
赤石五葉松が全国へ
昭和36年(1961年)、赤石五葉松を盆栽として全国に紹介し販路を拡大するとともに緑化運動を推進し、地場産業の振興を図るため「第1回赤石五葉松展示即売会」が開催されました。
昭和37年(1962年)には「第2回赤石五葉松展示即売会」開催後、十数名の生産者が会合を開き、全国的な生産出荷の要請に応えるべく「赤石五葉松盆栽組合」が設立されました。
10名ほどの同志で組合規約を定め、役員・理事を選出し、毎月第2日曜日を交換会日として、春秋には大市や畑市を催し、赤石五葉松と生産者のカタログを制作して全国に宣伝しました。
保護運動も精力的に始まる
昭和38年(1963年)、赤石山が高山植物の保存地域かつ五葉松の産地であることから、絶滅寸前の五葉松を守り種子を確保する目的で「赤石五葉松保護組合」が結成されました。
地元有志で自警団を組み、日夜現地の巡察・検問・張り込みを実施しました。五葉松の種を採取する際は町の教育委員会から立ち入り許可を申請し、許可腕章を付けて採取するルールが設けられました。
赤石五葉松、広く知られる存在へ
販売に関しては組合の積極的な働きかけもあって各地で手応えがあり、五葉松の種を全国に販売することで大きな収益を得る生産者が続出した時代でした。
日本の高度成長が始まった昭和30年頃は、神武景気・岩戸景気・国民所得倍増政策の時期を含み、経済が極めてダイナミックに躍動した時期であり、盆栽の需要も右肩上がりでした。
昭和30年代半ばから昭和40年代半ばにかけて盆栽ブームが到来し、赤石五葉松も需要を伸ばし、組合員数も増加して全盛期には60名を超えるほどになりました。
大量販売のブームが過ぎると、葉性や枝振りに注目して「この木がほしい」と個別に注文するお客様が増えていきました。
そこで、カタログにナンバー付きの写真を多数掲載し、木を限定して販売する方法へと変わっていきました。
赤石五葉松 世界へ目を向けるが…
昭和39年の東京オリンピック、昭和45年の日本万国博覧会もあり、開かれた日本となっていく社会情勢も手伝って、昭和30〜40年代には欧州からの研修生も受け入れていました。
一方、一部の業者が「赤石五葉松を機に世界へ売り出そう」と赤石山系に登り、成っている実を乱獲するようになりました。
そのうち木を根元から切り倒して採種するという荒っぽい方法も取られるようになり、樹齢数百年の五葉松が無残に荒らされていきました。
乱伐・盗伐を防ぐため、昭和40年に警察・愛媛県教育委員会・関係教育委員会連合による採種の一斉抜き打ち取り締まりが実施されました。
翌年には「赤石山系天然記念物保護対策協議会」が開催され、行政と保護団体が一体となって管理をさらに強化していくという共通認識が確立されました。
赤石五葉松 地域を代表する特産品として
販売面では好調を維持し、地域を代表する農産物として将来への期待も高く、1970年代初頭には農協系統団体を通じた通信販売が始まり、関東を中心に全国的な知名度が高まっていきました。
国内盆栽ブームの終焉
赤石山系が愛媛県の自然環境保全地域に指定され、山での幼木採取が禁止されることとなりました。
昭和天皇御在位60年を記念する式典において、地元の生産者が手がけた赤石五葉松がメインステージを飾るという栄誉ある機会にも恵まれました。
高度経済成長期以来の好景気を背景に隆盛を誇った盆栽ブームも、1990年代のバブル経済終焉とともに収束へと向かっていきました。
国内の盆栽需要は徐々に減少し、栽培農家の数も少なくなっていきました。
再び、世界へ目を向ける
国内で隆盛を誇った赤石五葉松の販売も落ち着きを見せはじめ、昭和末期頃から海外への輸出が本格的に始まりました。
取り扱いを担ったのは横浜の貿易商や園芸会社など複数の企業で、主な輸出先はEU圏、特にオランダが中心でした。
生産農家も徐々に減少し、ピーク時には約300軒あった農家が100軒程度にまで減ってしまいました。
産地における後継者問題
保護組合は会員が10人を切り解散を余儀なくされました。登山道整備の話も出ましたが、若い入会者がなく、設立当初のメンバーが高齢化したため、活動の継続が困難となっていました。
世界への足場を固める
赤石五葉松を取り巻く厳しい状況を打開しようと、海外市場の開拓に向けた取り組みが始まりました。
日本貿易振興機構や地域事務所の協力を得て、松盆栽の産地として名高い高松市鬼無・国分寺地区を訪れた海外バイヤーを招致し、赤石五葉松の魅力を積極的にアピールしました。
海外市場での手応えを掴みはじめた生産者たちは、欧州市場への本格的な出荷強化を目的として「赤石五葉松輸出振興組合」を設立しました。
2021年10月には、バチカン市国においてローマ教皇フランシスコへ赤石五葉松が献上され、欧州での知名度が一気に高まりました。
世界への足場を固める
「赤石五葉松輸出振興組合」は欧州への本格輸出に向けた準備を着実に進め、樹齢10年から100年超の盆栽約150本を出荷し、検疫・諸手続きを経て市場への出荷を待つ段階に至っています。
日本から輸出される植物には検疫や持ち込み規制があるため、その経験を活かしてドイツに展示培養所を開設する計画も進んでいます。
現在、四国中央市には約30軒の五葉松栽培農家が残っています。赤石五葉松盆栽組合は現在も活動を続けており、設立当初60人以上いた会員は盆栽ブームの収束とともに減少し、現在は42人となっています。
設立当初は特定地域の住民のみが対象でしたが、市町村合併後は資格要件が緩和され、周辺市からの加入も認められ、現在も幅広く活動・情報発信を行っています。
これからの赤石五葉松
高齢化が進む中、次世代の担い手育成がますます重要な課題となっています。
国内の盆栽を取り巻く環境は厳しいものの、輸出振興組合の地道な活動により海外からの需要が少しずつ増え、定期的な輸出が実現しつつあります。
赤石五葉松は、栄枯盛衰を繰り返しながらも、何百年もの歴史を積み重ねてきました。
乱獲や盗伐の危機を経験した地元の生産者・有志たちが自警団を結成し、赤石山系の五葉松を守り抜いてきた歴史が、今日の礎となっています。
世界に発信できる豊かな魅力を持つ赤石五葉松。
樹そのものだけでなく、長い伝統と先人たちの心意気までもが受け継がれ、再び力強く歩み始めた赤石五葉松。
先人たちが守り続けた五葉松の精神を、今に伝えるのが赤石五葉松なのです。
実生苗から育てた樹齢約50年の赤石五葉松が約20万本、生産者の手によって丹念に育てられ、圃場でその時を待っています。











