日本が誇る知られざる盆栽職人「田中誠二」の物語
- 日本にはまだ広く知られていない優れた職人がいます。第1回は、海外からも高い評価を受け、技術指導の依頼が絶えない盆栽職人・田中誠二氏。世界で活躍するようになるまでの軌跡を、生い立ちから追います。
- Wick Canvas 編集部
- 更新日:2022/8/23
- 投稿日:2020/5/28
- 職人
- 高松盆栽
松盆栽の一大産地として知られる高松。この地から、松柏盆栽の名手として広く知られる田中誠二氏が活躍しています。150年以上の歴史を持つ盆栽園の後継者として、現在はその活動が国内にとどまらず、欧米・東欧・アジアなど海外の展示会や講習会にも講師として赴き、精力的に活動しています。王道を貫きながら世界を舞台に活躍する田中氏に、これまでの歩みとこれからの展望を伺いました。

田中誠二(たなかせいじ)
昭和45年3月15日生まれ
150年以上の歴史を持つ盆栽園『田中松寿園(たなかしょうじゅえん)』4代目園主
日本盆栽協同組合 組合員
日本小品盆栽組合 組合員
(公社)全日本小品盆栽協会 理事
(公社)全日本小品盆栽協会 認定講師
讃岐盆栽展実行委員会 実行委員長
JA香川 盆栽部会 部会長
グリーンフェスタ高松実行委員会 実行委員長
香川県盆栽生産振興協議会 副会長
(公社)全日本小品盆栽協会 讃岐支部 事務局
父
田中国雄(くにお)
昭和22年5月10日生まれ
3代目『田中松寿園』園主
日本盆栽協同組合員
日本小品盆栽協同組合員
日本盆栽協会公認講師
全日本小品盆栽協会認定講師
『田中松寿園』の敷地面積は約2,000坪。大型の盆栽から手のひらサイズの小品盆栽まで幅広く手がける全国レベルの棚場を展開し、各地の展示会・品評会にも積極的に出品しています。
特に力を入れているのが小品盆栽の分野です。4代目園主・田中誠二氏は全日本小品盆栽協会の理事を務め、高松の盆栽界において小品の第一人者として広く知られています。
年に数回、海外の展示会でのデモンストレーションにも赴き、外国人研修生の受け入れにも積極的に取り組んでいます。
info
『田中松寿園』
盆栽の販売・管理・レンタルサービス
盆栽が結ぶ、世界との絆
「明日からオーストラリアで講習会があり、3週間ほど不在にします」
取材の翌日から、招聘を受けてシドニー郊外で小品盆栽のオープンフォーラムが開催されるという。デモンストレーション、技術講習、プレゼンテーション、ディスカッションなど多彩なプログラムが組まれ、技術はもちろん、会場や素材への適応力・想像力が問われる場だ。
「荷物は剪定ばさみや針金切りなど基本的な道具と着替えを詰めるだけです(笑)」
高松から乗り継ぎを重ねてシドニー中心部から約20km離れた会場まで、単純計算で15時間以上。待ち時間を含めればさらに長くなるが、海外渡航への気負いはまったくない。
年間を通じると2か月近く海外でのデモンストレーションや講習会に費やしており、そのような生活をすでに15年近く続けている。
2011年に高松市で開催された国際盆栽芸術祭には、約30の国・地域から76,000人以上が来場。これを機に海外からの講習依頼やデモンストレーションの要請がさらに増え、フランス、イタリア、ポーランド、カナダ、中国など数多くの国を訪れるようになった。

これらの国では通訳を介さず、ほぼ英語だけで渡り歩いている。
田中松寿園の盆栽を学びたいという外国人は後を絶たず、積極的に受け入れ、丁寧にサポートしている。海外活動の頻度や外国人受け入れの実績は、盆栽業界でも際立った存在感を示している。
先代の園主(75歳)も、盆栽を育てて販売するという従来の形から一歩進み、いち早く展示会への出品を始めた先駆者だ。
展示会への出品を重ねるうちに、先代の名匠としての技は国内外に知られるようになった。先代のもとで盆栽を学びたいという人が絶えず、外国人も次々と訪れていたという。
カナダ出身のジェリーさんは、先代の時代から田中松寿園に盆栽を学びに通う常連だ。現在も代替わり後も定期的に訪れている。
ジェリーさん以外にも、幼少期から定期的に田中松寿園を訪れる外国人は少なくない。1か月ほど滞在しながら盆栽を学ぶ人もいる。
「小さい頃、家の中に外国人がいて生活しているわけでしょう。肌の色や目の色が違うことが不思議で、生活様式も異なる。母が靴を脱ぐことから教えて、子どもがやったら叱られること、例えばお茶碗や味噌汁を置いたままご飯を食べるとかね。話しかけられて、'milk'や'water'くらいしか言えなかったけど、冷蔵庫から出してあげると'thank you'って言われて、なんかおもしろかったな」
最初こそ物珍しかったが、年月を経るうちに外国人が出入りする環境にも自然と慣れていった。
子ども時代のそういった経験があったからか、大学では英語、特にリスニングを一生懸命勉強した。
「子どもの頃、外国人に話しかけられても意味がわからず、黙ったり適当に返事をしたりして恥ずかしい思いをしたこともあった」
「日本と違う国、日本語と違う言語、それでも日本の盆栽をわざわざ習いに来ている。先代を'マスター'と呼んで敬意を持って教えを乞うている」——そんなことを肌で感じ、誇らしかったという。
「幼い頃から盆栽職人たちの中で過ごしていて、みなさん黙々と作業している。外国人も同じで、自分が行ったことのない国の人たちが、うちの盆栽園を見つけて遠くから来ている。でも盆栽に向き合う姿は日本人と変わらないと思ったよ」
子ども時代に感じた世界の人とつながるおもしろさは、深く心に刻まれた。技術力と英語力で数多くの国を舞台に活躍する土台となった経験——国際感覚への入り口は、盆栽が担ったといえる。
1ミリの迷いもなく
「盆栽の道を継ぐことに、一度も疑問を持ったことはなかった」
小学校から高校まで、野球に明け暮れた毎日だった。
勉強や部活をさぼると、先代から容赦なく厳しく叱られたという。
「怒られるのは怖かったし、多少の反抗心もあったけど、よく考えると自分が悪くて、理不尽とは感じなかった」
先代は普段口数が少なく、記憶に残る父の姿は、黙々と作業場で盆栽に鋏を入れる後ろ姿だ。
「集中しているな、邪魔しちゃいけないな、話しかけちゃいけないな、と子ども心に感じていた」
父が黙然と作業する姿には緊張感もあり、自分もやるべきことをきちんとやらなければという気持ちが自然と芽生えたという。
「勉強でも何でも、自分なりに一生懸命やらなければいけない」
寝食を忘れて盆栽に向かう父の背中を見ながら、そんな考えがストンと腑に落ちた瞬間があった。野球も勉強も、精一杯取り組んだ。
しかし、地元の香川大学農学部の受験には失敗した。
先代の恩師が見つけてくれたのが、千葉大学の園芸学部だった。
国立大学唯一の園芸学部として当時80年ほどの歴史と伝統を持ち、国際的な人材育成にも力を入れる教育方針に惹かれた。高松を、親元を離れてみたいという気持ちも大きかった。
「結局は先代が示した道筋だったけど、積極的に乗っかったのは自分自身だったかな」
浪人の1年間、家にいたが盆栽の手伝いを求められることはなかった。ただ、勉強をさぼる兆候があると猛烈に叱られた。
死に物狂いで勉強し、見事合格を果たした。
大学4年間は、酒やたばこも含め一通りの享楽を覚え、適度に遊んで楽しく過ごしたが、盆栽を学んだわけではなかった。卒業論文も盆栽とは無関係の「ラン科植物の光合成」についてだった。
「不思議なことに、道筋をつけてくれた割に、盆栽を勉強しろとは父からまったく言われなかった。こちらから盆栽について聞くこともなかった」
関東圏は盆栽園が集中する土地柄で展示会も比較的多いが、在学中は盆栽園にも盆栽展にも一度も足を運ばなかった。
盆栽とは無縁のまま、親元を離れて自由な学生生活を謳歌する日々だった。
「今思えば、大学時代は先代が与えてくれた猶予期間だったのかもしれない」
あの頃、先代も40代半ばに差し掛かり、人生の機微を少しわかってきた頃だっただろう。盆栽の世界に入れば盆栽漬けの日々になると、身をもって知っていたのではないか。
先代には面と向かって言ったことはないが、園芸学部という大義名分を与え、静観していてくれたことがありがたかった。感謝があったからこそ、高松に戻って気持ちを切り替えることができた。
「まず感謝したし、4年間の自由があったから、卒業と同時に盆栽の道へ、1ミリの迷いもなく踏み出せたのかもしれない」
もう1つ、子どもの頃からの解けない問いがあった……
「盆栽に真摯に向き合う先代を見てきたことも大きかった……盆栽とはいったいどんなものなのかと」
「見て覚えろ」が基本

大学卒業と同時に、修行の日々が始まった。
最初の10年は「基本の10年」で、水やりから針金かけ、芽摘み、植え替え、剪定まで基本的な一通りを身につける。
幼い頃から盆栽は身近にあり、職人たちの作業を見て何となくわかっていたつもりだったが、繰り返される毎日の単調な作業に最も嫌気が差したのもこの10年だった。それでも逃げることは考えなかった。
少しずつ盆栽のことがわかっていくことに、おもしろさを覚えていったからだ。
盆栽では「水やり3年」というが、3年とは樹の状態を見極められるようになるまでに要する期間のことだ。表土が白っぽくなったら鉢の底から抜けるくらい水を与える、というのは本にも書いてある。
「葉が弱っていないか、虫がついていないか、根腐れを起こしていないか——1本1本の盆栽の声を聞くというか、その声が聞こえる瞬間があって、そうなると樹への向き合い方も変わり、対話できるようになる。水やりも俄然おもしろくなってくる」
大学の園芸学部で学んだことも、結局は樹と対話する際の礎となった。
何より、「盆栽を仕事にするとはどういうことか」を身をもって学んだ10年だった。
仕事場にいようといまいが、昼夜を問わず師匠と弟子の関係が続く。仕事場では会話もなく、技術面での指導や助言を受けたことは一切なかった。
「先代は自分から見れば立派な盆栽職人で何でもできる。その背中を見よう見まねで日々を送るが、近づこうとしても近づけない」
そんな焦りが常に充満していた。
「1日がかりで針金をかけて整えた樹があって、自分なりに一生懸命やった。うまく仕上がったんじゃないか、先代も納得してくれるんじゃないかと思うくらい(笑)。翌朝黙って枝が切ってあって、先代は何も言わない。精神的にきつかった。でもよく考えると、'いらない枝に何で針金をかけたんだ'というメッセージだと気づいた」
落ち込んだ先に見えたのは、自分で考えることは当然だが、そのヒントを先代が与えてくれているということ。ならば思い切りぶつかっていこう、という気概が生まれたという。
それから少しずつ自分なりの盆栽への向き合い方を確立していったが、先代に近づいたと思っても、その日その時にしかできないものもある。ゴールがあるわけではない。
「先代の作った盆栽と自分の作った盆栽は明らかに違う。数ミリの差で仕上がりが随分と変わるのがわかる」
一般の人にはわからない僅かな差を、ひたすら追い求めていく。
自分なりの完璧な形を常に追い求めながら、樹に向き合い続ける。
「盆栽は自己満足の世界かもしれない」
その時は完璧と思っても、樹は生きているもの、刻々と形を変えていく。
自然の何千年、何万年という営みの中、普遍的な力強さとほんの一瞬の儚い美しさのバランスが相まって生まれるもの。
だからこそ盆栽には奥行きがあり、厳かでもあり、時に神聖な趣さえ漂わせる。
「樹1本1本、真剣勝負は当たり前。スポーツの'心技体'があるように、盆栽においても'心技体'が充実する——盆栽の心を理解し、仕立てと手入れの技術を身につけ、仕立てられた盆栽を深く味わう——そういうところに行き着くんじゃないかな」
盆栽になる樹との一期一会がある。
「オークションで'ピン'と来た樹があると、値段に関係なく意地になって競り落としてしまうことがある……」
そういう樹は、自分がやったらおもしろくなりそう、やったら楽しそうという樹だ。
オークションでは先代と離れた場所にいるのが常だが、気づくと同じ樹を競り合っていて、仲買人から「親子で競るのはやめなさい」と注意されることも多々あった。
「自分が引く場合も多くて……なんといっても自分の'マスター'ですから。同じ樹を競っていると気づいた時は恐縮もするけど、うれしくもあった」
言葉少ない先代と考えていることが同じだ、親子なんだと実感する瞬間でもあったからだ。
「代替わりしようが何しようが、たとえこの世にいなくなったとしても、先代は自分の'マスター'であることに変わりはない」
終わりなき盆栽の世界

苦しみ抜いた最初の10年を乗り越え、展示会での仕事ぶりや手入れを任された盆栽が賞を受けるなどして、雑誌やテレビの取材も受け、各方面から声がかかるようになった。
「キャリアは長くなってきているけど、自分には盆栽のセンスがないと思う」
国内外でデモや講習に飛び回り、外国人からも「マスター」と慕われる立場からの、意外な言葉だ。
「自分以外の人が仕立てた盆栽を見て楽しいというか、この人はこういう風に針金をかけるんだ、ここを切ってしまうんだ、と思う瞬間がある」
自分では思いつかないようなことをする人がいる、センスがあるな、すごいなと感じる。
一方で、センスがなくても盆栽が好きだ、盆栽を死ぬまで触り続けたいと思っている。
「外国人に'マスター'と呼ぶのをやめてほしいと伝えている。自分も一生研鑽の日々で、ある意味同じ立場だと思うから」
盆栽に終わりはない。
終わりはないが、盆栽に真っ向から向き合うための体力や年齢の限界はある。
「先代は絶対的な師匠だけど、その仕事も以前より甘くなったと感じる」
例えば、園には樹高1メートルを優に超える黒松が少なからずあり、もはや盆栽と呼べない状態のものもある。
庭木としてしか使えないと思われたような黒松を盆栽の姿に戻すため、太枝を鉄棒で曲げるという力技もある。30代前半の頃は先代と2人がかりで巨木を曲げ、休憩を挟みながら繰り返す、肉体的にも精神的にもハードな作業を行っていた。
最近ではそれも1人でこなしている。
「盆栽の枝を曲げたり位置を変えたりするため3本の指で針金をかける。この3本の指は職人の心臓ともいうべき部分。思うように動かなくなったり、曲げる力が最盛期より劣ってきたりすると、盆栽職人としてのピークは過ぎたということ」
盆栽をもっとこうしたい、ここを少し下げればという数ミリの違いが、刹那的な理想形を作り出す。その数ミリは3本の指にかかっている。それが思うようにならない日がいつかくるという。
「運動会のかけっこで、気持ちはもっともっとと思っているのに身体がついていかず、足が前に出なくて転んでしまう、そんな感じだね」
先代も65歳を過ぎたあたりから、3本の指の壁にぶつかった。
それでも今でも、夜明け前の5時に起き、作業場の定位置に座り、食事や排泄など基本的な営み以外は盆栽に向かい続けている。
田中氏も同じ。明け方5時に起き、夕方6時まで所用以外は定位置に座って盆栽に向き合う。
「起きたら盆栽というのが、先代も自分も当たり前というか」
若い頃に飲んで朝帰りし、午前4時ごろ泥酔状態で帰宅したことがある。玄関を開けると作業場があり、すでに先代が座って盆栽を手入れしていた。目の前を通っても何も言わず、黙って盆栽をいじっていた。酔いが一気に冷めた。
無言のまま、盆栽への向き合い方を全身で語っているようだった。
いつでも先代の背中を見てきた。
今、田中氏には大学生の息子がいるが、「家業を継ぎなさい」という話はしたことがないという。
盆栽の世界に入れば盆栽漬けの日々。盆栽は生き物、こちらが休むことはできない——自分も身をもって知った、決して派手ではなく地道な作業の連続だ。
その上、国内の盆栽人口が減り続けているのは業界全体が肌で感じている危惧だ。関連団体の組合員も最盛期の3分の1程度まで減少してしまっている。
「これから拡大していく業界という見通しも立たず、大きく儲けようという商売でもないから、息子には言えないかなと」
ただし、盆栽の道に入った当時は、国内の盆栽人口もまだそれほど少なくはなく、業界にも地域にも活気があり、状況はやや違ったようだ。
「先代なりの先見の明というか、もしかしたら家業は継いでほしいけど、業界の先行きの不透明さもあって、大学時代うるさく言わなかったのかもしれない。自分が田中松寿園の4代目として、大学生の息子を持つ親になって、そう思う時がある」
高松から盆栽ファンを増やすために
田中松寿園のある高松市国分寺地区には約40の盆栽園があるが、後継者問題は切実だ。
一般にはあまり知られていないが、松の盆栽生産量は香川県が日本一。高松市国分寺地区から鬼無地区にかけては全国シェア8割を占める松盆栽の一大産地だ。
国分寺地区には「盆栽神社」があり、樹木と草花の神様を祀った日本唯一の神社として、まさに盆栽の聖地といえる場所だ。
1950〜60年代の高度成長期には盆栽業も全盛期を迎え、隣接する鬼無地区と合わせて盆栽園は300軒ほどを数えた。それが今は100軒まで減少している。
現代の住宅事情では盆栽を置けるスペースの確保も難しく、住環境の変化やライフスタイルの多様化により、国内では閉塞感が強まっている。
「盆栽園の仕事は、日々手入れをして育てた樹・盆栽を販売すること。お客様の盆栽を預かって手入れし、飾りたい時に飾れる状態にしておくことや、展示会出品のための手入れも主な仕事だ。それだけではビジネスとして成り立たなくなってきており、海外への販路開拓が必然的な選択肢になってくる」
中国や台湾、欧米から日本の盆栽への関心が高まっている。2011年の国際盆栽芸術祭を機に多くの盆栽が輸出されるようになり、香川県全体としても輸出額は拡大傾向にある。
2013年には地区の盆栽園主を主な構成メンバーとして高松盆栽輸出振興会が設立され、海外バイヤーの招待や多言語サイトの開設など、海外販路開拓に取り組んでいる。
2001年に約6億4,000万円だった盆栽・庭木の輸出額は、2016年には80億円を突破し、海外市場への期待はますます高まっている。
「国内市場の縮小に対して輸出を伸ばすことも必須だ。官民一体で取り組んでいる部分もあるが、もう1つは絶対的に日本の盆栽・高松盆栽のファンを増やしたい。海外でデモをしていると、盆栽を通じて日本を好きになってくれる人が増えているのを肌で感じる。盆栽から日本を好きになってくれるなんて、本当にエキサイティングだよね」
招聘されるデモンストレーションや講習会では、武道の実演や折紙教室、着物の着付けなど日本文化プログラムも合わせて実施され、開催国や近隣諸国から多くの盆栽ファン・日本ファンが集まるという。

海外での活動を機に、田中松寿園へ研修に訪れる外国人もいる。最近では一度に4人の外国人を受け入れたが、手狭になり物理的にも精神的にも回りきらない感があったという。受け入れ側と来る側、双方にとってのストレス軽減も課題だ。
盆栽人口を増やすため、整った環境の中で、自分と盆栽に惹かれてやってくる人に、ストレスなく思い切り指導したい。
「おかげさまで海外に呼ばれる機会に恵まれているが、それをもう1歩進めて、国内外から高松に人を呼びたいと思うようになった。高松盆栽を広めるため、拠点を持って腰を据えて活動していきたい」
以前は海外に呼んでもらい、異国の空気を吸って新鮮だったし、おもしろさもあり、リフレッシュできていた部分もある。
「宿泊施設を備えた盆栽研修施設を作る。先代の時代から外国人を受け入れてきたが、体系立てて取り組む時が来たと思っている」
海外への招聘も通算100回以上に上り、外国人が盆栽について何を知りたいか、何を求めているかが蓄積されてきた。その結果、ここ高松でやることに意義を見出した。
「整った環境の中で研修を受けてもらい、その中から後進を育てていくような人が出てきてくれたら」

「本物の盆栽」を守り抜き、後世に伝えていく
「外国人が研修施設に集まったら、近所の子どもたちを集めて英語教室もできたらいい。そして盆栽のことも、子どもたちにもっと知ってもらえたら」
地元の小学校で毎年3年生を対象に盆栽づくりを指導している。通学路には盆栽園や盆栽畑が広がり、この地区の子どもたちには当たり前の光景だが、全国的にはなかなか見られない風景だ。

もしかしたら、今やっていること・やろうとしていることを続けていけば、将来外国に興味を持った子どもたちが海外に出て、ふるさとの盆栽の良さを広めてくれるかもしれない。
時間がかかることは重々わかっているが、「本物の盆栽」をここから広めていくことに注力していきたい。
盆栽の形も多様化し、苔玉や小さな花もの、壁にかける盆栽、パフォーマンスを伴う盆栽など、エンターテインメント性があったり現代のライフスタイルに合致したりするものも増えている。
「そういうのもおもしろいし、盆栽への入り口としてはいいと思う。新しい形で盆栽に興味を持つ人が増えるのはいいことだ」
その言葉の後、表情が急に引き締まった。
「自分がやっているのは本物の盆栽、'ゆるぎない正統派'だと思っている」
盆栽は生き物、一期一会。その緊張感と、自然の景色を体現する静謐さ、変化していく危うさと確固たる普遍性、人工的でありながら自然な趣。
その本物の盆栽で勝負し、世界に広めていきたい。
「先代を見てきたせいか、新しいビジネスモデルを構築しながら、地域貢献もしていきたい」
田中松寿園を訪れる外国人に慣れ親しんだ幼少年期、野球に明け暮れた10代、死に物狂いで勉強した浪人時代を経て、植物と英語を学んだ大学時代。
素直に飛び込んだ盆栽の道。逃げ出したくなりながらも盆栽の仕事の意義を見出した、最初の10年。
自分の技術を磨き、展示会や品評会で評価を受け、海外活動に新鮮味を覚え、俯瞰で見えてきた自分のやるべきこと。
「盆栽は鎌倉時代に日本独自のものとして確立されてから800年以上の時を経て受け継がれてきた、日本が誇る文化であり芸術。国内需要の落ち込みや後継者不在など一筋縄ではいかない問題を抱えてはいるが、'本物の盆栽'を守り抜いて後世に伝え残していくのが自分の使命だ」








