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意外と知られていない盆栽の起源。歴史を紐解くと見えてくる真実とは?

日本の盆栽が世界に認められるようになった背景を探る、盆栽の歴史への旅。
Wick Canvas 編集部
  • 更新日:2022/8/25
  • 投稿日:2022/8/25
  1. 意外と知られていない盆栽の起源。歴史を紐解くと見えてくる真実とは? 「盆栽」はいつ、どのようにして生まれたのでしょうか?実のところ、その起源には諸説あり確かなことはわかっていません。絵画や建築物と異なり、盆栽は管理や培養によって姿が変わり、枯れたり消滅したりすることもあるためです。

    確かなことは不明ですが、少なくとも2,500年以上前には、樹を鉢に植えて育てる文化が存在していたと言われています。

    ここでは知られざる盆栽の歴史を紐解き、その奥深い魅力を探っていきましょう。

    目次

    • 章 盆栽の起源
    • 章 中国の盆景
    • 章
    • 章 日本の盆栽の歴史
      節 1.鎌倉・平安時代
      節 2.江戸時代
      節 3.明治・大正時代
      節 4.昭和
      節 5.現代

    盆栽の起源・歴史

    中国における「盆栽」は「盆景」と呼ばれ、平安時代から鎌倉時代にかけて日本に伝わったとされています。以来、日本の文化として多くの人々に愛されてきました。日本の盆栽は中国の「盆景」を日本の風土で育み発展させたもので、その本質は共通しています。「盆景」の背景には歴史・宗教・哲学など多様な要素があり、日本の「盆栽」も同様です。

    日本の盆栽文化は芸術性の面でも高く評価されており、海外では「BONSAI」として年々認知度が高まっています。

    中国の盆景

    先に述べたように、「盆栽」の元は中国発祥の「盆景」にあるとされています。
    辞書(『大辞泉』小学館刊)で「盆景」を調べると、次のように説明されています。

    1 盆栽に石などを置いて山水を表現したもの。
    2 水盤の上に土で山や岩を作り、色砂で海などを表し、自然の風景を写したもの。水盤盆景。
    3 箱庭のような小規模な風景。

    とあります。
    3は「盆景」に共通する概念であり、1と2は同じ「盆景」でも様式が異なることがわかります。
    このように中国の盆景は、山水盆景と植物盆景の主に2つの様式に分類されます。

    植物盆景の起源については、後漢(紀元25〜220年)時代の河北省にある貴族の墓から、鉢植えを描いた壁画が発見されています。植物・鉢・台が揃った現存最古の記録であり、約2,000年前に貴族が鉢植えを所有していたことがわかります。

    山水盆景の起源については、河北省「安平漢墓」の壁画に、墓の主人の従者が盆山を捧げ持つ姿が描かれています。「安平漢墓」は180年頃に建造されたと考えられており、山水盆景の起源もこの時代とされています。

    山西省大同市の北魏(386〜534年)、司馬金龍の墓から出土した屏風漆画『列女古賢図』にも盆山が描かれています。貴族の邸宅に山水盆景らしきものが飾られていたことが見て取れます。

    列女古賢図

    「盆景」の成り立ちとしては、自然崇拝、道教の神仙思想、魏晋時代(220〜303年)の文人らによる老荘思想の体現としての隠土文化が背景にあったと考えられています。文人たちは俗世を離れ山林に隠れ、自然を愛好しました。

    人と自然の調和は中国の文化・道教において重要なテーマであり、精神世界を満たすための自然の縮図として「盆景」が重宝されたことは想像に難くありません。

    唐代(618〜907年)には経済が繁栄し社会も安定した時期が長く、芸術面でも空前の発展を遂げました。造園も盛んになり、「盆景」も大きく発展しました。

    盆の上に土・砂・石・植物などを配置して山川の景色を表現した「盆景」は唐代に生まれたとされています。「盆景」とは鉢の中の景色(盆中景)を意味し、限られた空間に自然の美を凝縮して表現することを目的としています。

    唐代の遺跡『章懐太子李賢墓壁画』(706年)にも従者が「盆景」を捧げ持つ図があります。1,400年以上前から陶器に草木を植えて鑑賞する風習があったことがわかり、「盆栽」「盆景」を知る上で最も重要な資料の一つとされています。

    章懐太子李賢墓壁画

    また、文人たちの間では、庭に植えられた背丈の低い老態ある小さな松を愛でる風潮が生まれてきます。

    宋代(960〜1279年)には文化芸術面でも著しい発展が見られます。松を鑑賞する風習がさらに発展し、「盤松」と呼ばれる古老松を愛でる風潮が生まれました。石付き盆栽も見られるようになり、中国独自の山水の景色が表現されるようになりました。

    南宋時代(1127〜1279年)には園芸市も盛んになり、盆栽の売買が活発に行われていたという記録が残っています。

    元代(1271〜1368年)はモンゴル人による征服王朝という側面もあり、漢民族の文化はあまり発展しませんでした。「盆景」の発展も緩やかでしたが、この頃に小型化が進んだとされています。

    明代(1368〜1644年)には漢民族の統一国家が再興し、文化芸術が高度に発展。宋代の基盤の上で盆松・「盆景」もさらなる発展を遂げ、多くの資料が残されています。
    明代の植物盆景の整枝技術は『汝南圃史』『姑蘇誌』に、樹形と様式は『考槃余事』『素園石譜』などに記されています。

    素園石譜

    清代(1644〜1912年)にも盆景ブームの勢いは続きました。特に乾隆帝・嘉慶帝の時代に技術が発達し、使用される植物の種類や様式も多様化しました。
    この頃の暮らしを描いた絵画や文献には「盆景」が多く登場します。『冬景花卉詩画冊』には石を置いた「盆景」が鮮やかな釉色で描かれています。
    「盆景」は富裕層だけの趣味ではなく、一般の人々にも親しまれる身近な楽しみとなったのもこの頃とされています。

    冬景花卉詩画冊

    清朝後期から国力が衰退するにつれ、文化全般と「盆景」の発展も緩やかになっていきます。
    中華人民共和国(1949年〜)の成立以降、文化大革命(1966〜1976年)を経て、古代の盆景芸術は再び活気を取り戻し急速に発展。各地で盆景組織が誕生するようになりました。

    1988年には北京で中国盆景芸術家協会が設立され、中国の盆景芸術の発展を後押ししました。現在ではほとんどの自治体・自治区に盆景組織が設立されています。
    盆景関連の書籍や雑誌も多数出版されており、月刊誌・隔月刊誌など多彩なメディアで盆景文化が発信されています。過去10年間で50種類以上の関連書籍が刊行されています。

    中国は広大な国土を有し、地域ごとの自然環境の違いから、現在「盆景」には八大流派と呼ばれる様式が存在し、それぞれの地域の伝統を重んじた樹形を持っています。

    八大流派

    八大派
    蘇州(江蘇省)、揚州(江蘇省)、嶺南(広東・広西・海南省ほか)、四川、安徽、上海、浙江、如皋(江蘇省)
    嶺南盆景:自然=生き生きとした自然なさま
    四川盆景:蟠曲多姿=くねくねと曲がりくねった姿
    蘇州盆景:清秀古雅=清楚で古風かつ雅なさま
    揚州盆景:整庄重厳=厳粛で重々しいさま
    安徽盆景:古朴奇特=古風で質朴かつ珍しいさま
    上海盆景:明快流畅=明快で流れるように滑らかなさま
    浙江盆景:雄挺秀美=たくましく雄大なさま
    如皋盆景:云頭雨足美人腰=雲の頭、雨の足、美人の腰のような

    抽象的な樹形も多く、日本の「盆栽」に慣れ親しんだ方には少々珍しく映るかもしれません。しかしどれも趣深く、その文化は現代中国にも受け継がれています。伝統の流派はさらに発展し、新しい流派も生まれ続け、互いに高め合う豊かな風潮が続いています。

    中国の社会文化では「盆景」を育てることを人格を磨く一つの方法と捉える節もあるようです。植物園や昔ながらの公園の一角に「盆景(盆栽)」が並べられ、多くの愛好家が楽しんでいます。

    日本の盆栽の歴史

    「盆栽」の発展の源は、中国から平安時代(794〜1185年)〜鎌倉時代(1185〜1336年)にかけて伝わった「盆景」にあるとされています。
    それ以前には、奈良時代(710〜794年)の歴史書『日本書紀』(720年完成)に、作庭に関する最初の記録が見られます。

    『日本書紀』二十二 推古
    是、自百濟国有化來者、其面身皆斑白、若有白癩者乎。惡其異於人、欲棄海中嶋、然其人曰「若惡臣之斑皮者、白斑牛馬不可畜於国中。亦臣有小才、能構山岳之形。其留臣而用則爲国有利、何空之棄海嶋耶。」於是、聽其辭以不棄、仍令構須彌山形及橋於南庭。時人號其人曰路子工、亦名芝耆摩呂。

    現代語訳
    この年(即位20年)、百済国から自ら帰化する者がいた。その体はまだらであった。もしや白癩の者かと、その異様な様を忌み嫌い海の島に捨てようとした。するとその人が言うには「私のまだらな肌を忌み嫌うなら、白斑の牛馬も国内で飼うべきではない。私にはいささかの才能があり、山や丘の形を作ることができる。留めて使えば国の利益になろう。なぜ虚しく海に捨てようとするのか」と言った。その言葉を聞き入れ、須弥山と呉橋を南庭に作るよう命じた。時の人はその人を路子工、またの名を芝耆摩呂と呼んだ。

    奈良の正倉院には「仮山(かりやま)」と呼ばれる宝物があり、木製の洲浜状の台の上に朽木の根を立てて山水を表現したものです。仏具の一つであることから仏教の影響が見られ、「盆景」の始まりもこの頃と推測されます。奈良時代は唐文化の影響を色濃く受けており、「仮山」は中国から伝わった現存する日本最古の縮景物とされています。

    鎌倉・平安時代

    鉢植えについては、平安時代の歴史書『続日本後記』に、839年、河内国(現大阪府)の農民が自宅に咲いた橘の花を瑞徴として、橘の木を土器に植えて仁明天皇に献上したという記録があります。

    さらに発達して「盆景」に草を植えるようになった様子は、藤原氏の氏神・春日大社の霊験を描いた『春日権現験記』(推定1309年制作)の絵に描かれています。
    公家・歌人であった藤原俊成の邸宅では、「盆栽」らしきものが庭先のすのこ台の上に置かれており、雲形の把手の付いた器に白砂を敷き詰め、大きな石を2点配し、手前の岩からは木が生え、赤白朱の花と実が付いています。向こう側の石には苔むした岩肌に傘を広げたような松が植えられ、その向こうには青磁の鉢に水を張り石を据え草を生やしています。

    春日権現記

    歌人・西行(1118〜90年)の物語を描いた『西行物語絵巻』(13世紀後半制作)も「石付き盆栽」の様式で描かれています。
    鎌倉時代の絵巻物を紐解くと、縮景とされた「盆栽」の向こうに山水の庭、さらに自然の景色が広がり、自然が凝縮されながら座敷へと向かって配置されている様子が見られます。

    西行物語絵巻

    本願寺三世・覚如(1270〜1351年)の伝記を描いた『慕帰絵詞』(1351年制作)には、庭先に鉢木を3個並べた情景が描かれています。素焼きの鉢に白い玉砂が敷かれ、梅や曲がった幹の松が植えられています。

    文学上では、吉田兼好が著した随筆『徒然草』(鎌倉時代後期制作)の百五十四段の記述が最初とされています。鎌倉時代後期の公卿・日野資朝(1290〜1332年)が愛好していた植木のエピソードが登場します。

    『徒然草』百五十四段
    この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたはものどもの集りゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほにめづらしからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えれば、鉢に植ゑられける木ども、皆堀り捨てられにけり。さも有りぬべき事なり。

    現代語訳
    資朝卿が東寺の門で雨宿りをしていたところ、身体に不自由のある者たちが集まっていた。手足がねじゆがみ誰もが異様な姿であるのを見て「珍しい生き物だ、よく見る価値がある」と眺めていると、すぐに興味が失せ不快に感じた。「曲がっているより、まっすぐな身体の方がいい」と思い家に帰ってから、愛好していた植木を見て「異様な曲がり具合を好んでいたのは、あの不自由な者を愛でるようなものだ」と気づき、鉢に植えられていた木(盆栽)をすべて掘り起こして捨ててしまったというのは、もっともなことである。

    室町時代(1336〜1561年)には、八代将軍・足利義政(1436〜1490年)が「盆山」を愛好していました。
    義政の側近・季瓊真蘂(1401〜1469年)は日記『蔭涼軒日録』に「盆山」のことを記しています。室町幕府と結びついた禅宗寺院「五山十刹」の禅僧が「盆山」を趣味にしていたこと、将軍の命でこれらを集めた様子、石や樹の種類などが記されており、「石付き盆栽」の祖先ともいえるものです。

    盆栽の歴史的絵巻資料

    義政が世話した「末の松山」という盆石は、義政没後に織田信長(1534〜1582年)の手に渡り、石山合戦の和(1570〜1580年)に際して本願寺に送られ、今も西本願寺が所蔵しているとされています。
    足利将軍家の「盆山」愛好は信長に受け継がれ、義政から信長の時代にかけてが「盆山」の最盛期と考えられています。この最盛期の様子を伝える絵画として『盆栽図屏風』があります。

    盆栽図屏風

    江戸時代

    江戸時代初期に制作された『盆栽図屏風』は、「盆山」を主題とした大変珍しい屏風です。容器に水や砂を張り、岩を配し、木を植えた構成は、現代の「石付き盆栽」の原型とも言える姿を描いています。
    この屏風に描かれた「盆栽」は、水面に浮かぶ島のような趣に仕立てられています。木そのものを愛でる「鉢木」とは異なり、「盆山」では石を含めた全体の景観が重視されていたことが見て取れます。また、以前の絵巻物に描かれた「盆山」と比べ、植え付けの技法や器の意匠においても、より洗練された様子が伺えます。

    この時代、ポルトガル人が日本を訪れており、1603〜1604年に長崎で刊行された『日葡辞書』には、
    「Bonsan(ぼんさん・盆山)」についての記述が残されています。それによると、

    Bonsan……日本人が緑の苔を付けたり、小さな植物を植えたりして、水面に浮かぶ小島のような形に仕立てる、ある種の石や自然木の素材

    と説明されています。
    「盆山」は中世における「盆栽」の祖先の一つであり、盆の中に山を模した「盆仮山(ぼんかさん)」が転じたものです。庭から「盆山」へ、そして座敷へと、自然の凝縮度が高まっていった様子が窺えます。

    この「盆山」は今日も伝統芸能の中に息づいており、江戸時代(1603〜1867年)の狂言『盆山』として演じられています。ある男が「盆山」を盗みに入った屋敷で主人に見つかり、犬や猿の鳴き声を真似させられた挙げ句、鯛の鳴き声まで求められて逃げ出すという滑稽な物語です。

    近年、世間では盆山が大流行。ある屋敷の主人が豪華な盆山を数多く所有しているとの評判を聞いた近隣の男が羨ましく思い、譲ってほしいと頼むも断られます。男は一計を案じ、夜な夜な屋敷に忍び込んで盆山を拝借しようとします。物色中に盆山の陰に隠れますが、主人に気づかれてしまいます。主人はからかおうと「犬か?」「猿か?」「鯛か?」と鳴き声を強いられた末、男は飛び上がって「タイっ」と叫んで逃げ出します。

    というお話です。中世の終わりには都でも「盆栽」が流行し、熱心なコレクターが存在し、盗人まで現れるほどの人気だったことが伝わってきます。

    「盆山」と並んで「鉢の木」も中世日本における「盆栽」のルーツの一つとされており、浮世絵や版画にも数多く描かれています。
    また、寒い冬の夜に旅の僧侶に扮した北条時頼(1227〜1263年)を温めるため、三鉢の木を薪にしたという1300年代後期の伝承が、江戸時代(1603〜1867年)に謡曲『鉢木』として広まり、以降数世紀にわたり木版画や絵画に描かれ続けました。

    ある冬の夜、旅の僧が上野国(現・群馬県)のあばら家に一夜の宿を求めます。貧しい主は秘蔵の松・梅・桜の三鉢を薪にして暖を取り、僧をもてなします。促されて身の上を語った主は、「いざ鎌倉」の時には命を捨てて馳せ参じると誓います。翌春、鎌倉からの召集に応じた主は、あの旅僧こそ第五代執権・北条時頼であったと知り、松・梅・桜にちなんだ三つの所領を賜り、その心意気を讃えられます。

    この物語はフィクションですが、中世の関東において、落ちぶれた武士でさえ「鉢木」を手元に置いていたことが窺えます。困窮しながらも「鉢木」を手放さず、それを薪にして客をもてなした心意気を権力者が称えたという点からも、「鉢木」の持つ深い価値が伝わってきます。
    近世は、大名・旗本などの上層階級と庶民それぞれの盆栽文化が、ともに大きく育まれた時代です。

    江戸時代に入ると、さまざまな芸術が盛んになる中で園芸も発達し、多くの園芸書が刊行されて一大ブームが起こりました。初代から三代の将軍・徳川家康(1543〜1616年)、徳川秀忠(1579〜1632年)も園芸を深く愛し、仕える大名や旗本にも大きな影響を与えました。
    この時代には「盆栽」が大名から家臣へ贈られることもあったと伝わっており、それほど高い価値を持つものとして扱われていたことが分かります。

    園芸を主な趣味としていたのは武家・大名家でしたが、やがて盆栽専門の職人が現れ、盆栽文化は大名から庶民へと広がっていきました。松や梅など年月を重ねる樹木への愛好が、明治維新以降の「盆栽」文化へとつながっていきます。

    江戸時代、現在の迎賓館や東宮御所、園遊会が催される「赤坂御用地」(東京都港区)は紀州徳川家の敷地であり、庭園には広大な園芸場が設けられ、数多くの鉢植えが所狭しと並べられていたと伝わります。

    第三代将軍・徳川家光(1604〜1651年)も「盆栽」の熱心な愛好家として知られています。特に五葉松の「盆栽」を好み、家光が育てた松の「盆栽」のいくつかは今日も大切に保管されています。

    中でも、推定樹齢600年とされる家光遺愛の五葉松『三代将軍』は名品中の名品とされ、皇居の盆栽仕立て場にて丁重に管理されています。『三代将軍』は「三代古盆栽」の一つに数えられ、他の二点は都立園芸高校(東京都世田谷区)に所蔵されています。

    当時の園芸技術の高さや園芸への情熱は、残された園芸書からも十分に伝わってきます。江戸時代前期の代表的なものとして、つつじの名花図『躑躅花譜』、36種のカエデに銘と古歌を添えた『古歌仙紅葉集』(1710年)、日本初の桜の図鑑『怡顔斎桜品』(1758年)などが挙げられます。

    江戸時代末期に刊行された『本草図譜』(1828年完成)は約2000種の植物を写生・彩色し、分類と解説を加えた日本初の総合的植物図鑑とされています。同時期の『草木図説』(1856〜1862年刊)は1250種の草類の写生図と解説からなる、日本最初の近代的図説です。

    両者の最大の違いは、前者が中国の本草学を基に分類しているのに対し、後者は西洋近代植物学のリンネ式二名法を取り入れ、ラテン語の学名で考証されている点にあります。

    植物の育て方や技術を記した日本初の園芸書は、水野勝元著『花壇網目』(1681年刊行)です。江戸初期の植栽技術を総合的に解説し、季節ごとの花の特徴と栽培法が詳しく記されています。

    江戸は識字率が非常に高く、世界トップレベルとも言われています。上層階級や知識人だけでなく、一般庶民にとっても図鑑や園芸書は身近な読み物であり、これらが広く読まれることで園芸文化が大きく発展していったのでしょう。

    この頃から、現代の発音に近い「盆栽(ぼんさい)」という言葉が使われるようになっていきます。

    明治・大正時代

    幕末から明治にかけて、煎茶会が流行します。中国文化への強い憧れを持つ京阪の文化人たちが、中国の新しい文化である煎茶を取り入れたのです。
    その背景には、武家を主な担い手とし抹茶を用いる「茶道」への批判もありました。細かな規範に縛られず、自由さを求めるのが「煎茶の心」でした。

    文人たちは茶の湯文化で床の間に飾られる生花よりも「盆栽」を好み、中国の文人画に見られる自由な表現を愛し、花よりも木の姿を映したものを好みました。煎茶席の道具はほとんどが漢名で音読みされており、音読みの「ぼんさい」が使われ始めたのです。

    京阪で流行した煎茶会を背景に、庭先に置かれていた「鉢植え」が、「盆栽(ぼんさい)」という呼称を持って座敷の上に飾られるようになっていきました。
    公家や維新の志士たちが「盆栽」を愛好するなど、政治とも絡み合いながら、「盆栽」は文化的な地位を着実に高めていきました。

    煎茶会で盆栽が飾られていた様子は「茗讌(めいえん)図録」が参考になります。代表的なものとして、1862年に大阪で開催された煎茶会の記録『青湾茶会図録』(田能村直・1863年刊)があり、煎茶会の席に「盆栽」が床飾りとして鑑賞された様子が見て取れます。

    技術面では、明治時代(1868〜1911年)に自然の景観を重視した樹形づくりを目指す「自然盆栽」が提唱されました。この頃、針金掛けによる整技法が開発され、それまで困難だった樹形づくりが格段に容易になりました。この概念と技術の発展が、現代の「盆栽」の基盤となっています。

    明治維新以降は政府要人の間でも盆栽愛好の風潮が盛んになり、皇族・政治家・財界へと広まる中で、「盆栽」を専門に管理する盆栽家も現れてきました。

    早稲田大学の創立者として知られる政治家・大隈重信(1838〜1922年)も盆栽愛好家として有名です。広大な邸宅の廊下に所狭しと「盆栽」を並べ、膨大な培養場を管理していたと伝わります。

    正岡子規(1867〜1902年)や夏目漱石(1867〜1916年)など、明治の文豪たちにも「盆栽」は深く愛されました。病床にあった子規のもとには、文人たちから贈り物として「盆栽」が届けられ、その俳句や短歌にも「盆栽」が詠み込まれています。

    病人が盆栽の梅咲きにけり
    盆栽の蓮に向ふや夕涼
    盆栽ノ柘榴實垂レテ落チントス
    盆栽に梅の花あり冬こもり

    病床にあっても四季折々の句を「盆栽」を愛でながら詠んだ子規の姿が目に浮かびます。子規はまた、随筆集『墨汁一滴』の中で次のように記しています。

    病牀(びょうしょう)で絵の写生の稽古をするには、モデルになるものはそこらにある小さな器か、いけ花か盆栽の花くらいで、他に仕方がない

    と綴っています。

    明治時代の煎茶会の形式で室内に持ち込まれた「盆栽」の陳列会は、大正時代(1912〜1926年)を通じて座敷飾りへと変化を遂げていきます。

    1921年、東京の盆栽業者を中心に「大日本盆栽奨励会」が組織され、毎月各盆栽園を会場に陳列会が開かれるようになりました。年2回は東京・上野鶯谷の料亭「伊香保」で大会が催され、宣伝誌として月刊『盆栽』も創刊されました。

    盆栽熱の高まりとともに関連図書も刊行され、展覧会が催され、盆栽家たちも活発な活動を展開することで、「盆栽」の一般普及が加速していきました。

    昭和

    昭和時代(1926〜1989年)に入るまで、「盆栽」は主に一部の愛好家による煎茶会や料亭での会員制陳列会で飾られていましたが、より多くの人に鑑賞してもらおうと、畳一畳分の展示スペースで陳列会が開かれるようになりました。このことは、別の大きな効果を生み出すことになります。

    1927年、朝日新聞社の有楽町新社屋にて『盆栽』誌主催の「明治大正記念全国代表名木盆栽展覧会」が開催され、1928年には昭和天皇御即位記念奉祝事業として「全日本盆栽展」が東京市主催で日比谷公園広場にて開かれました。

    畳一畳分での展示が可能になったことで、どこでも展覧会が開けるようになったことが大きく影響しています。また、この盆栽展で初めて「皇居の盆栽」がお貸し下げとなり、皇室の後ろ盾を得た「盆栽」の格がさらに高まるという重要な意義を持ちました。

    1934年には東京府美術館(現・東京都美術館)で「第1回国風盆栽展」が開かれました。開催実現のために奔走したのは、都新聞(現・東京新聞)記者のかたわら『盆栽』誌を編集・発行し、普及に尽力した小林憲雄(1889〜1972年)です。

    「第1回国風盆栽展」では、美術界で権威ある「帝国美術院展覧会(帝展)」と同じ東京府美術館で「盆栽」が展示されましたが、使用にあたっては評議員の許可が必要で、一部の芸術家から異議が唱えられたそうです。

    しかし、生花や「盆栽」に深い造詣を持つ彫刻家・朝倉文夫(1883〜1964年)が「『盆栽』も立派な芸術ではないか」と共鳴し、美術界の方々を説得したと伝わります。由緒ある美術館での展示は、「盆栽」が絵画や工芸品と同等の芸術として認められた画期的な出来事でした。

    小林は、盆栽展を運営する「国風盆栽会(現・日本盆栽協会の前身団体の一つ)」の発足にあたり、旧讃岐高松藩主家出身で後に貴族院議長となる松平頼寿(1874〜1944年)を初代会長に招きました。頼寿は副会長に旧姫路藩主出身で農林大臣も務めた酒井忠正(1893〜1971年)を迎えるなど、国風盆栽展の認知と普及に力を注ぎました。

    頼寿自身も盆栽愛好家であり、樹高20センチ以下で手のひらに乗る「小品盆栽」を一つのジャンルとして確立したことでも知られています。
    こうした経緯を経て、文化人や政財界の要人たちによって「盆栽」の格が高められ、皇室の後ろ盾を得て、芸術の域へと押し上げられていきました。

    盆栽界全体が活気づき愛好家も増え始めた頃でしたが、第二次世界大戦(1939〜1945年)後は盆栽界も多大な損害を受けることになりました。

    当初、国風盆栽展への出品は会員制でしたが、戦時中の1943年、第18回展より『盆栽』誌上で会員を公募するようになり、公募展としての性格が強まっていきました。

    翌年の第19回盆栽展は、開催直前に陸軍省報道部からの公用通達により中止となりました。
    国風盆栽展は中断され、機関紙『盆栽』も休刊という事態に陥りました。戦時中は空襲で「盆栽」や培養場が焼失し、作り手も減り、「盆栽」を守り育てられる社会状況ではありませんでした。

    しかし、戦後に世情が落ち着くとともに「盆栽」も再び盛んになりました。機関誌『盆栽』は1946年に復刊され、3年間中断していた「国風盆栽展」も1947年に再開されました。

    戦後は、政財界人を中心とした特権的な盆栽文化が、公募展への移行によってよりオープンになり、盆栽人口の増加と大衆化の完成へとつながっていきました。

    1958年には東京・日本橋三越にて、デパートとしては初の「日本盆栽名品展」が開催されました。戦後の復興が進み培養・管理状態も向上する中で、盆栽専門家による本格的な「盆栽」が久しぶりに大衆の目に触れたのです。

    1964年、東京オリンピックの年には記念の大盆栽展が開かれ、多くの外国人が鑑賞し、「盆栽」の国際的な認知度も高まりました。

    1965年、盆栽芸術の向上と普及発展、日本文化の振興に寄与することを目的に、国風盆栽会を母体として「社団法人日本盆栽協会」(初代会長・吉田茂元首相)が設立され、現在に至るまで「国風盆栽展」の伝統を守り続けています。

    この頃、日本は高度経済成長期(1954〜1973年)の真っ只中。その象徴的な一大イベント「日本万国博覧会」が1970年に開催され、日本の「盆栽」1000点以上が入れ替えながら展示されました。「盆栽」が日本の誇る伝統文化・芸術であるという認識が、国内外に広く浸透していきました。

    「盆栽」が「BONSAI(ボンサイ)」として、その美と伝統が世界に認められた瞬間でした。

    国内外で盆栽熱が高まる機運を受け、1989年に埼玉県大宮市(現・さいたま市)にて第1回世界盆栽大会(WBC=World Bonsai Convention)が開催されました。参加国は32か国、参加者は1200名にのぼり、世界盆栽友好連盟(WBFF=World Bonsai Friendship Federation)が設立されました。以降、4年ごとに世界各地で大会が開催されています。
    ※詳しくは「世界盆栽大会について」をご覧ください。

    また、1970年の万国博覧会を契機に「盆栽」の海外輸出が始まりました。以降、輸出額は増加を続け、盆栽と庭木を合わせた輸出額は2001年に約6億4000万円でしたが、2008年には約52億4000万円、2012年には約81億7000万円、2018年には盆栽ブームを追い風に約126億3000万円と過去最高を記録しました。

    現代

    かつて「盆栽」は年配者やリタイア後の趣味と見られがちでしたが、近年は愛好家の層が広がり、老若男女を問わず多くの方が盆栽を楽しんでいます。
    若い世代に人気が広がった背景には、「盆栽」のサイズの小型化が大きく貢献しています。手のひらサイズのミニ盆栽・豆盆栽や苔玉など、気軽に購入でき省スペースで楽しめる選択肢が増えたことも要因の一つです。

    場所を取らずに育てられる「小さな盆栽」は、机の上や棚の一角など小さなスペースにも置くことができ、盆栽初心者でも気軽に始められます。

    ブームに伴い、ミニ盆栽や苔玉などは専門店だけでなく、雑貨店やセレクトショップ、インテリアショップでも購入できるようになり、「盆栽」に興味を持つきっかけが身近に増えています。

    観葉植物の代わりに「盆栽」を置く企業もあれば、和洋問わず飲食店に鎮座していることもあり、マンションのベランダやバルコニーで盆栽づくりを楽しむ20〜30代の方も増えているようです。

    近年では、「盆栽」に人物や動物をかたどったミニフィギュアを配置してストーリーを持たせ、ジオラマのような小さな世界を作り上げる「マン盆栽」なども、若い世代の盆栽人気を後押ししています。

    芸術性の高い日本文化として海外でも注目を集める「盆栽」は、英語でも「BONSAI」と呼ばれ、その認知度は年々高まっています。世界各地に愛好家の協会や団体が設立され、海外への輸出も増加傾向にあります。

    遥か昔に中国で芽生えた「盆栽(盆景)」が日本に伝わり、日本の風土の中で独自の形式へと発展し、さらに海外へと広がって世界各国で愛好されるようになりました。世界中の愛好家が深い敬意と情熱を持って盆栽づくりを楽しんでいる様子には、感慨深いものがあります。
    詳しくは「海外でも大人気のBONSAI」をご覧ください。

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